「柔らかいキスと話し合いの机」

 海でキスを釣る。

朝の4時、どんよりと暗い秋田の新屋浜に釣りに来ていた。朝の4時である。早起きが苦手なのに、これはもう来ただけでえらい。激しい追い風にたたかれ、6月なのにその日は凍えるように寒かった。この浜には何度か来たけれど、いつも曇り空で、風が強く、海全体に拒絶されているようだと感じる。激しく波打つ海面に、何度も何度も釣竿をふりながら、私は小さな女の子が海で遊ぶ姿を思い出していた。

 

 

 映画『リトル・ガール』(*1)には、7歳の女の子、サシャが海で遊ぶシーンがある。映画の海はやさしく、カラッとした青空で、少女は家族と一緒に遊んでいる。輝くシーンのはずが、背景に流れるピアノの音はなんだか不穏で、そのギャップに映画を見る私は緊張してしまう。これから少女が体験するであろう荒波を予感させるからだ。

 サシャは、学校でも自分が好きなスカートやワンピースを着るために、男の子らしい出で立ちを求める学校側ともめていた。母親はサシャが少年ではなく、本人が希望する女の子として学校で過ごしていけるよう、校長との話し合いを提案し日程を調整し、実際にカウンセラーや保護者を交えての話し合いの場を作る。しかし、学校側の人間は誰も姿を見せなかった。これまで「どう話し合うべきなのか」を展覧会でも考えてきたが「どうやって話し合いの場まで持っていくか」は抜け落ちていたように思う。自分の経験を振り返ってみても、はぐらかされたり無視されたり、話が始められないことの方が多いのに。理不尽に傷つけられ涙する少女の頬に、母親はお守りのようにキスを重ねる。

 

 

 先日、戯曲『ねー』を読んだ。(*2)

展覧会関連イベント「表現者のためのLGBTQ勉強会」でお呼びした和田華子さんが出演した舞台でもあり、話し合いを疑い、問い直す内容だった。この物語では、政治的秘密結社「話し合い」という名の集団が世界を支配している。この集団は定期的に集会を開くが、秘密結社のメンバーが選んだ特別な人間しか集会に参加することができない。世界をよくするために開催される(と言われている)集会には、参加資格がいるのだ。誰が話し合いに参加していて、メンバーを選んでいるのは誰なのか。話し合いから排除されているのは誰なのか、そして、話し合いに強制参加させられるとは、何を意味するのか。神話のような空気感で、強烈に現実を風刺する物語だ。

 

 

 展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」が2022年7月3日で終了した。

この展覧会には机を展示している。この机は、剥がした壁の寄せ集めで作られていて、脚が片側2本しかない。天井からのロープで、どうにかバランスを保っている。この展覧会を考える上で、話し合いは大切なキーワードだった。机はその象徴として選ばれた。実際、会期中に行われた4回の「おはなし会」や「勉強会」などのイベントではこの机を参加者が囲み使用した。揺れるので体重をかけないようにしながら。

 当初は、セメントで作られた300キロの机を作ろうとしていた。どんなに部屋が破壊されようと、強風が吹こうと、100年たっても微動だにしないような頑丈で重い机だ。結局そんな机は作らなかったけれど、あれは願望だったんだと今では思う。話し合いというものが、どんな状況でもちゃんと立っていてくれて、尊厳を保ち、壊れず、壊されず、そこに不変にあるものであれば良いのに、という願望。政治家の会議で配られる冊子や、宗教的な方針、伝統を重んじる組織の圧力、SNSで広がるデマなどを目の当たりにして、私たちは話し合いの脆さを知っている。私たちが作った机のようにツギハギで、少し触れただけで傾き、微妙なバランスで保たれた不安定なものだ。荒波の中では特に、簡単に流され、砕け散ってしまう。

 

 

 10歳のサシャが、海に立ち続けている姿を想像する。

ドキュメンタリー映画の暴力性についてここでは言及しなければいけない。映画執筆家の児玉美月さんは、映画を見る鑑賞者がトランスジェンダーについて得られる学びが、幼いサシャのプライバシーを曝したうえに成り立っている事実を指摘しながら「審美的な映像や感動的な物語性に陶酔していてばかりでは、自分自身の置かれた特権性に対してあまりに無邪気すぎる気がしてしまう」(*3)と問いかけている。その通りだと思う。サシャの経験を映画にする上で、きっと家族やサシャとの間で話し合いがあったのではないかと想像する。しかし、例え7歳のサシャがOKだと答えたとして、数年後彼女がどう感じるかはわからないし、個人的なセクシャリティーを映画で公開する暴力性は消えない。「話し合い」が何かの免罪符として使われることがあるからこそ、見る側は決して忘れてはならないと思う。人間を誰かの学びのために傷つけたり、強くなることを強制するのは間違っている。

 

 

 新屋浜ではキスが10匹ほど釣れた。銀色の中に輝く金や緑がちらつく美しい魚だった。家に帰って天ぷらにする。身はふわふわで、こんなふわふわなものが、あの荒波の中で泳いでいたとは思えないほど白く、やさしかった。荒波に打ち勝つために、セメントのように硬く重くある必要はないのかもしれない。しなやかに柔らかく、泳いでいくこともできるのかもしれない。

 私は小さな女の子が、金色にゆれながら波をすり抜ける姿を想像する。

 

 

 

 

2022.07.15 中島

このエッセイは、2022年に岩瀬海、櫻井莉菜と共に作った展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」に寄せて展覧会HPに掲載していた内容を一部編集したものです。全4回のエッセイでは、展覧会の裏話や中島の個人的な視点などを、秋田の食べ物と一緒にゆるくまとめています。展示の様子はこちら展覧会HPではコラム、展示記録やコンセプト、制作風景などのアーカイブもご覧になれます。https://biyongpointexhibition.jimdofree.com

 

(*1)『リトル・ガール』

セバスチャン・リフシッツ監督による2020年の映画。原題『Petite fille』。秋田市のミニシアター「アウトクロップ・シネマ」にて、期せずして展覧会会期中の2022年6月17-19日の3日間上映されました。

 

(*2)『ねー』

小野晃太朗作の戯曲。2021年に今井朋彦による演出で愛知県芸術劇場で公演された際、俳優の和田華子さんが出演されています。第19回AAF戯曲賞受賞作品で、公式HPからダウンロード可能です。実際におきた性犯罪事件をモチーフにしているため暴力的な描写が含まれるので、苦手な方は無理に読まずに美味しいものを食べてください。

 

(*3)児玉美月「映画に映される子供たちと、私たちに課せられた責任」p11.

『リトル・ガール』映画パンフレット、2021年、サンリスフィルム発行

 子供のセクシャリティーを映画で公開する暴力性については本文でも書きましたが、同時に10代前後の若いトランスの人たちが直面している医療制度の遅れ(『トランスジェンダー 問題 議論は正義のために』ショーン・フェイ著、高井ゆと里訳 2022年 明石書店の第2章「正しい身体、間違った身体」に詳しい)や、メディアが偏ったトランスの人たちのイメージを作り出してきた歴史(ドキュメンタリー映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』(2020)に詳しい)も無視することはできないと考えています。